帰ってきた自作ポータブル赤道儀(2015/11)
by offline

39年の時を経て帰ってきた自作ポタ赤(1969年作成)


2014年4月、一通のはがきを受け取りました。差出人はEさん。懐かしい名前でした。 そして、通信面には見覚えのあるポタ赤の写真が印刷してありました。 そのポタ赤は、私が1969(昭和44)年に自作したもので、1975(昭和50)年4月にEさんに 譲ったものでした。はがきには、そのポタ赤を今も保管していると書いてありました。 もう譲ったことすら忘れていましたので、大変驚くとともに、今まで処分せずに持っていてくれたことに大いに感激しました。

記憶が定かではありませんが、Eさんとは1974(昭和49)年8月に十種ヶ峰野外活動センターで開催された県立山口博物館主催の 夏期天文講座で出会ったと思います。当時小学6年生でした。好奇心旺盛で利発な子という印象で、もの怖じせずにどんどん質問を 浴びせてくる熱意に感心したものです。

そして、その翌年(1975年)4月、中学生になったばかりのEさんから手紙をもらいました。Eさんはそのころ山口市の中心部に住んでいて、手紙の趣旨は、市街地の真ん中で星の写真に挑戦しているがカブリがひどくて困っていること、持っている赤道儀は重くて運搬に苦労しており、ポータブル赤道儀を作りたいというものでした。私のポタ赤を参考にしたいので設計図でもあれば送ってほしいということでしたが、残念ながら、ご覧のとおりガラクタ箱から使えそうなものを拾って適当にくっ付けただけですから、設計図などあろうはずもありません。ちょうどそのころ、このポタ赤は出番がなくなっていましたので、手っ取り早く現物を参考にしてもらうために譲ったのでした。

 


そのポタ赤が、昨年(2014年)5月1日、39年の時を経て私の手元に帰ってきました。生みの親の元に置くのが一番と、わざわざEさんが返しに来てくれたのです。Eさんとは年齢も離れていましたし、住む町も違ったので、その後何度か夏季天文講座で会ったぐらいで、Eさんも進学・就職と自分の人生を歩むうちに、いつしか交信が途絶えていたのですが、記憶にある少年のころの面影はそのままでした。あの少年が、今や企業の要職にあって、グローバルに活躍していることは本当にうれしい限りです。超多忙な日々ながら、星への情熱は昔のままで、周天の観望会や天体教室に遠くから駆けつけてくれていることはご存知のとおりです。あの時の縁がこういう形で復活しようとは思いもよらないことでした。出会ったころは大人と子供という関係でしたが、いつの間にか現役組とリタイア組の関係になっていました。光陰矢の如し。感慨深いものがあります。

ところで、このポタ赤はあまりにもガラクタ同然でしたから、少し見映えのことも意識して、もう一台作っていました。ちょうど先代に使った極軸と同じものがもうひとつありましたので、同じものが作れる状況でした。極軸は洗濯機のパルセータ(回転翌)のシャフトを利用したものですが、一度シャフトを交換修理したときと、その後洗濯機本体を廃棄したときにシャフトだけ捨てずに取っておいたので、同じものが2本あったのです。見映えに配慮すると言っても、所詮身の回りにある材料で家庭用の大工道具ぐらいで作れることが前提です。そこで、今度は厚さ7mmほどの塩ビ板を使うことにしました。塩ビ板は、パイプをカットしてガスコンロであぶって平たく延ばして作りました。本当はアルミの厚板を使いたかったのですが、当時は身近にそんな金属材料を少量分けてくれるような業者を見つけられず断念。塩ビ板でも厚さがあれば強度的には大丈夫だろうと思ったのと、何より加工が簡単で身近に手に入ることから決めました。工具も大したものはいりません。金切鋸とヤスリ、手回しのドリル、タップぐらいですみます。作業は順調に進み、ほどなく完成したのが下の写真です。1971(昭和46)年のことでした。

1971年に作った二代目ポタ赤。 4cm屈折をガイド鏡にして追尾していました。


1975(昭和50)年8月30日、現・宇部天文同好会長のHさんに誘われて、磐梯吾妻レークラインの中津川大駐車場で開かれた『第一回星空への招待』に星仲間のKさんとともに参加したとき、この二代目ポタ赤を持参しました。会場には天文ガイド編集部の方々も来られていて、このポタ赤に目をとめていただき、後日製作手記の依頼が舞い込みました。その結果、私のつたない手記が天文ガイド1976(昭和51)年5月号に掲載されて、大変恥ずかしい思いをしたものです。現在、この二代目は行方不明となってしまい、手記用に撮った写真しかありませんので、原型である初代ポタ赤が帰ってきたことは望外の喜びでした。今日まで大切に保管してくれていたEさんに深く感謝します。


余談ですが、『星空への招待』では、同郷のよしみで藤井旭さん直々にクルマで会場まで連れて行ってもらったこと、助手席は愛犬チロの指定席だったこと、藤井さんにカメラを預けてチロと記念写真を撮ってもらったら、ピントはチロにピタリと合わせてあり、私たちは後ろでボケていたことなどを思い出します。
(下がその写真です)

チロと記念写真
藤井旭さん撮影



そして、何と言っても劇的だったのは「はくちょう座新星」との出会いでした。会場で雲間からチラリと姿を現す星をベガだデネブだと言いながら晴れるのを待っていると、雲が切れてはくちょうの全景が現れたとき、みんながアッと声を上げてどよめいたものです。その中の一人が東京天文台(当時)の下保茂先生でした。先生は直ちに下山され、民家で電話を借りて天文台に連絡されたそうです。しばらくして戻られた先生から、既に前夜から報告が入っていること、第一発見者が山口市の高校生・長田健太郎君であることが告げられたのでした。情報伝達手段が今ほど多くない時代ですから、人里離れた会場にいた私たちは、誰も新星出現の情報を知らず、一日遅れで独立発見したというわけです。

1975.08.30 第1回『星空への招待』の会場で撮影した はくちょう座新星


以上